〈教会建築の特徴〉
1.石造教会…………………………… 地元産の砂岩で建設された石造教会である。石造りの教会は
北海道3ケ所、宮城、栃木、福島3県に各1ケ所、合計7ケ所のみである。
2.二重の持ち送り華構……………… 内部天井がハンマービーム方式である。内部四隅の白椿の模
様は、椿の花を宗数的に抽象化したものである。
3.小さな母屋のみの教会……………・ 小さなネーブ(7m X15.4m=108・、32.6)の一室のみで、両側の
廊下部分(アイル)はない。窓や入口上部は半円アーチ型である。
〈旺盛な宗教心〉
1.五島くずれの迫害に耐える
明治元年の五島崩れの際の飢餓、算木責めの迫害に耐えなが
ら、宗教的指導者であるドミンゴ森松次郎を曽根に落とした。
明治6年以降全島カトリック信者。
2.10年間の労働奉仕と財政負担に耐える。
明治43年から大正8年まで、教会堂建築のため努力し、信仰を
守り通して完成した。
3.現在12戸20人で教会堂の維持管理、美化に努めている。
〈頭ケ島に関係深い三人の人物〉
1.前田義太夫正義
久賀島出身で安牧5年(1858)代官貞方数右衛門の許可を得て頭ケ島の開拓に乗り出す。
兄、山ロ長十郎が有川鯨組々頭に任じられた際に有川にきた。吉十郎と称し、前田伝次郎家
の養子となり、頭ケ島で小頭役を努めた。
2.ドミンゴ森松次郎
1797年の大村藩キリシタンの大量移民、与重・かおの3人姉弟の一人で蛤で生活していた。
慶応2年長崎から帰ると頭ケ島にカトリックの教会兼伝道所兼住宅の建設にとりかかり、翌3年
3月に移住、同4年に建物(木造)が完成した。
明治元年の迫害時には、信徒に助けられ曽根に渡り、潜伏して大浦天主堂にひそみ、プチ
ジャン神父に随行してホンコン、マカオに渡り、後年帰国した。
3.鉄川與助(明12.1.13
− 昭51.9ご逝去97才)
1879年鉄川與四郎の長男として出生、明治39年(1906)27歳で家督を継ぎ、土木建築
請負業鉄川組を設立した。
20歳のときペルー神父の指導のもと曽根に木造教会(現存せず)を建設して教会建築に感
銘を受けた。以後、明治40年冷水天主堂で初めて設計・施工を手がけ、野首天主堂ではじ
めてレンズを使用し、大水天主堂、頭ケ島天主堂ではハンマービームの新しい工法を取り入
れた。このように與助は九州各地に30余りの教会堂を設計施工したが、どれも同じものはあ
りませんでした。
青砂ケ浦教会、頭ケ島教会の二つが国の重要文化財に指定されたが、昭和42年秋、動五
等瑞宝章を贈られており、日本建築学会終身会員でもある。
大正八年コンパス司教献堂
頭ケ島天主堂
平成1311月14日重文指定
灯台の聖母修道院付属
〈天井等の花の花言葉〉
ハマギク,はまぎく(浜菊) 「逆境に立ち向かう」
ハマユウ,はまゆう(浜木綿) 「どこか遠くへ」「汚れがない」
ツバキ,つばき(椿)「理想の愛」「謙遜」
(赤)「控えめな愛」「気取らない美しさ」
(白)申し分のない愛らしさ」「理想的な愛情」「冷ややかな美しさ」
ユリ,ゆり(百合) 「威厳」「純潔」「無垢」
五島へ五島へと皆行きたがる
五島はやさしや土地までも
五島へ五島へと皆行きたがる
五島は田舎のエリを見る
五島は極楽行ってみて
地獄よ 地獄よ
二度と行くまい五島の島へ |