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    頭ヶ島教会   案内板 


頭ヶ島教会堂 の案内板
頭ヶ島教会堂
 頭ヶ島教会堂は、我が国の教会堂建築の発展に優れた功績を残した鉄川与助氏の設計・施工による西日本では唯一の、また、全国的にも珍しい切石積の石造り教会堂であり、創建時の原型が完全に保存されて現在も教会堂として使用されている。 
 また、当教会堂は内部の空間構成を最大の特徴としており、天井は二重の持送りハンマー・ビーム架構(Hammer-Beamroof)で折りあげられている。 この種の折り上げ天井も他の教会堂建築には見られないもので、鉄川与助氏の一連の作品とは意匠的にかなり相違しており教会堂建築を完成へと導いた鉄川与助氏による新しい空間創造の記念碑的建築といえる。
 また、司祭館も石造りでベランダを配する等、構造的に珍しく、当教会堂及び司祭館は、ともに我が国教会堂建築史上、他に例を見ない存在である。
 平成13年11月14日 国指定重要文化財(建造物)
 1919(大正8)年4月14日 落成

重要文化財指定書

訪問記念スタンプ

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頭島教会沿革 の案内板
頭島教会沿革
 安政6年(1859年)10月無人島であった頭島に鯛之浦のキリシタンがあいついで移住してきたク-ザン宣教師は後の第3代長崎司教慶応3年1867年2月と4月の2回にわたって此の島に渡来し伝導を試みている 明治41年頃主任司祭ヨゼフ大崎師は新聖堂建設に着工大正8年4月14日1919年第4代長崎司教コンバス閣下司式により献堂式が挙行されるに至った。此の聖堂は日本唯一の石造りで島内の石を刻み信徒達は額に汗してその石を運び十数年の歳月を費やして完成したものである。
 爾来約60年の風雨に絶えたとは云え信徒の減少に伴い老朽化先祖の残した血と汗の結晶である貴重な遺産を無くすまいと1977年9月主任司祭ミカエル道向師の指導のもとに、信徒一戸に付30萬圓の献金と内外の奇特者の御協力によって修復完成したものである。
       1977年10月建之

五島キリシタン信仰復活のしおり
 時は寛政9年(1797)大村藩主純鎮と五島藩主盛運は、各自領内の政治並びに経済の建てなおしを理由に大村領外海地方のキリシタンを集団的に五島に移住さすべく評議がまとまり、その第一陣はご用百姓として108人は待遇もよかったが、第二陣は地域開拓作業のためとして1000人を要請したしたのに対して、3000人を受け入れることになり、藩当局は、その過剰の人員の取り扱いに苦悩している最中、大量のキリシタン移住に対して当然幕府の目が光るようになり、当藩のキリシタンに対する関心も軽視されることになりついにキリシタンの移住は五島全域に、自由に居付が許されることになったのである。
 そのために3000余りのキリシタンたちは、我れ先にと「水と土」を求めて安住の地に散在することになったのである。 
 更に時は文久2年(1862)であった。「外道征伏」の張本人渡辺昇は大村藩の大目付にのし上がり、直属の横目に外海の吉平を起用し、外海キリシタン頭目、森松次郎翁を討ち取り、その配下のキリシタンたちを一網打尽にする計画を明日にでも実施するとの知らせを受けた松次老翁は、住民集会を緊急に開き、渡辺昇のキリシタンに対する一網打尽性を説得し信仰の保全と家族安全のために、西海沖の上五島へ避難逃走することになったのである。
 処が、一獲千金を夢見て予定通りに討伐にはいった渡辺昇は、もぬけのからの憂目に会わされたことに憤然となり、これまでの宿敵、松次郎翁に対する執念は、ついに翁を「討ち取るまで」の怨念に早変わり、直ちに引き起こされた五島一円の大迫害は、この時のうっぷん晴らしの一駒でもあったのである。
 斯くして難を避けて、上五島への逃走に成功した、森松次郎翁は居を五島有川の蛤に構え、引き連れて来た配下のキリシタンたちばかりでなく、先住民キリシタンたちとの出会いの中で、旧来のバスチャン予言の実現、つまり新しい教会のパドレたちが、既に長崎の大浦に来られていることについての事柄を説明し、古い教理、道徳、典礼についての再教育を強調し、数年間の翁の不眠不休の努力の結果、慶応3年、2月6日、ブチジャ司教代理としてクザン師が密航者の姿で有川蛤の松次郎翁の自宅で初の出会いがあり、そこで隠れキリシタンの225年間の夢を破って新しい秘跡と典礼が行なわれたのであるが同年4月20日(主の復活祭)には、松次郎翁の要請とクザン師の身の安全を含めて、「キリシタンの天国」とまで伝われていた有川の頭ヶ島に再度のお出を頂き、新しい教区教会の顔と古く沈み入ったキリシタンたちの叩き出しが始まり、残虐非道の上五島迫害もここから始まったのである。
 幸いにして、松次郎翁は九死一生を得て島から脱出して曽根方面に逃れ、大平を経て長崎に渡り、明治2年(1869)6月プチジャン司教に伴われてマニラに留学し、そこで日本ローマ字の古文書「ロザリオの記録」なども習得し、明治維新前後の日本の宗教界に絶大の功績を残されたのである。
 依て、茲にドミンゴ森松次郎翁の学徳を替え、五島キリシタン信仰復活への 功績を偲び、現代に生きる使徒的役割の模範者として祈念し顕彰の像を建てる
  昭和62年4月佳日
  五島キリシタン信仰復活120周年記念
      キリシタン文化史跡顕彰碑保存会

ブレール師信徒同伴殉教のしおり の案内板
ブレール師信徒同伴殉教のしおり
 フランシスコブレ−ル師は1847年(弘化4)フランスエルモンヴィルに生まれ27才で司祭に叙階され1876年(明治9)布教のため日本へ旅立ち長崎に来られ市内周辺殊に伊王島などで司牧に精出しついに1880年(明治13)5月上五島地区の独立の祭地区の主座鯛之浦教会の初代主任司祭としこ赴任され直ちに教会兼司祭館としてわらぶきの長屋を建てられ細長い五島列島を縦に取って南は奈留島の有福から北は野崎島の野首まで日夜兼行教会業務と信徒司牧に揮身の努力を注いでおられたのであった。
 ところが明治18年(1885)4月中旬ブレール師は多忙の中にも余暇を求めて新設教会と育児施設資金受領のために外海出津のドロ師の館に身を寄せておられたのである。
 その時たまたま五島鯛之浦に危篤の患者があり最後の秘跡を切に望むとあって地域の若者たちがお互いに呼びがけ合い水夫12名が選ばれて「神父お迎え船」が仕立てられ難所の多い五島灘を一気に押し切ってようやく出津の浜に着いたと伝うのであった。
 何時も気さくの良いブし−ル師は、いやはやそれは恐れ入りましたと云うや否や館を呼び出し坂を降りて船に乗り込みあやしい雲ゆきを気にしながら夕闇迫る西海の波間に船は帰路についた。
 海は確かに時化ていて灘は既に嵐になっており船は木の葉のように波と風にほんろうされて水びたしになり「難破してついに荒い波間に漂流することになったのである。
 幸い沖合いを見ると船影が来ているので助けを求めると、その船は近づいて接舷して救助はしてくれたが外人ブレ−ル師が多額の金品を所持していることを知るやそれらの凡を奪い取りその跡形のこらぬようにと、ブレール師外12名の水夫たちを船の舵棒で撲殺し船べり遠く海面に放り込んだと言い伝えられている。
 処がこの船の乗り組員の中に一人のキリシタンが居たのである。 彼は今生の思い出に彼らはみな舵棒の一撃を身に受ける時異口同音に「おお唯一の希望なる十字架よ」の替歌をロにしていと安らかに息引きとられたと言葉すくなにロもらしたと言い伝えられこいるのである。 茲にブレール師外12名の若者たちの使徒的使命の殉教を替えその威徳を偲び殊に私たち教会と信徒の守りの神として尊敬と信頼の裡に顕彰の碑を建てる。
      昭和62年4月佳日
      五島キリシタン信仰復活120周年記念
          キリシタン文化史跡顕彰碑保存会

頭ヶ島伝道士養成所跡 の案内板
頭ヶ島伝道士養成所跡
 慶応3年(1867年)4月、ドミンゴ森松次郎はこの地に聖堂を兼ねた伝道士養成所を落成させ、クゼン師を迎えて開設した。
 当時の島の人口16戸130人。五島各地選抜の人材がここに集まり、伝道士養成の教育を受けた。しかし、明治元年(1868年)末には迫害が起こり、一時監禁所となる。
 その後、同20年(1887年)に木造、大正8年(1919年)4月には現聖堂が落成し今日に至る。
 

白浜遺跡 の案内板
白浜遺跡
 この砂丘は「昭和42年4月砂採取作業中人骨20体が発掘された」と聞き、昭和42年7月19日調査確認された遺跡である。
 調査時、成人(女)と幼児2体の縄文人骨が出土し、その後、打製・磨製の石斧(せきふ)や石さじ等石器及び曽畑(そばた)式・轟(とどろき)式・並木(なみき)式・阿高(あたか)式・南福(なんぷく)式・富江(とみえ)式の土器片(縄文前中期以降)が出土し、縄文前期(約6000年前)〜晩期(2500年前)の3500年間程の縄文人が居住し、なお、古墳時代の遺物・須恵器も出土している。