めーざいでん(弁財天)  


 寛文二年(一六六二)五島藩主盛勝は叔父の民部盛清に、本知壱萬五千三
十石の内、三千石を分興し、藩士の五分の一を随従させて、富江藩を創設さ
せた。富江藩創設に至る迄には、数年に渡って分藩に関る問題が起っている。
 領内七十六箇村中、二十箇村を分割して富江分藩
のことは一応終結したと言われているが、その時五
島藩の有川と富江藩に分れた魚目との間に、有川湾
の領海についての海境問題が起った。当時の有川の
名主、江口甚右エ門は、有川にとって不利なままの
海境問題について、福江、富江の両藩に訴え出たが、
分藩の際の藩制上のいきさつ等で解決の糸口が見つ
からず、又目前の海で思うように漁が出来ない為、生
活は愈々困窮するばかりであったので、貞亨四年(一六八七)四月、有川の村
人は江口甚右エ門を中心に江戸公訴に踏み切った。なかなか裁定が下らず、
代表の一行は四回にわたって江戸へ登った。その費用稔出のため、各郷ごと
に雑木を伐り出して売却し、家財、身の飾りをも売り、亦各所からの借入金を以
て賄った。 二十九年の長きに及ぶ海境紛争で村人は使い果して餓死する者も
あり、子供を売り、或いは奉公に出す者も多く、家財道具、衣類等も悉く売払って
堪え忍び、ひたすら勝訴を神仏に祈願する等、難難辛苦の末、元禄三年(一六九
〇)の五月六日、有川勝訴の御裁許が下り、江口甚右エ門一行は六月に帰郷した。
 江口甚右エ門たちは江戸公訴の道中に於いて九十六社の神仏に勝訴を祈願し
ているが、特に鎌倉の弁財天には信仰が深く、帰郷の折には御神体を奉じて来て
浜の御小島に祀り、鯨組の守り神とした。当時の鯨組では正月二日に「始出式」が
行なわれ、夜中過ぎには太鼓が音響き、大歌が歌われた後、四十数人の羽差が
諸肌脱いで轆轤の周囲に円陣をかき「生歌」に併せて「羽差踊り」を踊った後、組の
重役たちを海に投げ込んで勇躍初漁に漕ぎ出したという。十四日は小正月で「弁財
天祭り」が行なわれ、払暁から鯨唄の太鼓が打鳴らされて、羽差踊りや年の始め等、
数々の鯨唄が盛大に唄われて終日賑わったと伝えられている。明治の後期、砲殺
捕鯨の発達によって有川湾の游鯨も途絶え、有川鯨組から発展した五島捕鯨株式
会社も明治四十年には休業となり、東洋捕鯨株式会社に漁場を貸付け、大正六年
貸付期限満了後、再び旧式の網を用いて再経営したが一頭の漁獲もなく、終に開散
した。 昭和天皇の御大典記念行事を契機として、青年団に依り町の年中行事として
定着するに至った。

        有川町郷土史より