かとっぽ

    江口甚右衛門正利     



 有川村の名主、江口甚左衛門が万治四年(一六六一)二月没したので

四男の甚右衛門が十七才で家督、役儀共に相続した。

 その翌年、寛文二年(一六六二)五島藩より富江藩三千石の分地に伴い、

魚目領地が富江藩に分地された。

         

 有川湾については元来五島藩の領地内であったが故に、入会漁場として

何等問題は生じていなかっだが、この分地によって魚目村が自村の領海説

を主張し始めた為論争が起り、更に捕鯨の網代を一方的に貸付ける等して

有川村を無視し、尚漁場からの締出しを図る等の行為に及び紛争が表面化

した。

 名主江口甚右衛門は、福江、富江の両藩に訴えて善処方を願い出たが、

仲々決着の見通しが着かず、万策尽きて終に江戸公訴に踏切った。

 江戸評定所に赴くこと四度、元禄三年(一六九一)漸くにして有川湾内

は入会漁場也として勝訴の裁許状を得ることが出来た。     

 この間、実に二十九年の長期に亘る村民の苦難も筆舌に尽し難く、家内

諸道具や衣類等も悉く売り払い、餓死する者、奉公に行く者、娘を身売さ

せる者等と、貧苦と一家離散の実に悲惨な日々が続いた。

 このような極貧に喘ぐ最中にあって、江戸公訴一行の費用調達も困難を

極め、各所からの借入金の外、村内の雑木を殆ど伐り出して宇久島等に売

り、或いは身の飾り等も悉く売り尽くして凌いだ。

 このように有川六ケ村の百五十四戸、六百二十人前後の総村人達が、名

主江口甚右衛門を中心に一丸となって、よく貧苦欠乏に耐え抜き、未曽有

の大難を乗り越えて遂に勝訴を獲得するに至ったが、余りにも長い歳月で

あり、村民の不安、動揺も少くなかった事が偲ばれる。

 然し江口甚右衛門は、よく村民を統括し、万難を排して事態に対処した

のである。この強靭な精神力を支えたものは何であったろうか。惟るに控

訴の信憑性と勝訴する確信の基に、神仏の加護を戴くという深い信仰心が

あったものと思われる。それは江戸公訴の途中、九十箇所に及ぶ社寺に勝

訴を祈願していることからも推察出来る。

 元禄四年(一六九一)鯨組が本格的に有川鯨組として組織を整え、宇久

島の山田茂兵衛の協力も得て、年々鯨の大漁が続き、疲弊しきった有川村

に漸く生気が蘇るに至ったとき、先ず神仏の加護なりとして祈願していた

社寺に財を寄進し、或いは修造を行っている。

 殊に元禄八年(一六九五)から宝永三年(一七〇三)の九年間に亘って、

有川六ケ村民に対し貴賎の隔なく捕鯨利潤の配分を行っている。

 村人達はこの配分金によって奉公に出した老を帰郷させ、娘達を身請けし、

風俗も漸くにして和み、儒教の正しい道理を学ぶ気運も生じ、一家団欒の平

穏な生活を取戻すことが出来たのである。

 かくして江口甚右衛門は享保十年(一七二五)七月二十日 八十一歳の生

渡を終えた。

  法名 欣浄院安譽順心居士

 村民は、欣浄院が長年に亘って村民を統御し、あらゆる 苦難を克服して

漁場を守りぬき、鯨組の再興によって村民を潤し、村を繁栄させる等、計り

知れない功績を後世に遺す為、「二十日恵美須」の神号を奉じ、「正利翁社」

として祭祀した。

       有川町郷土史より