かとっぽ

    青砂ヶ浦教会 −案内板         



教会訪問記念のスタンプです

重要文化財指定書

教会案内板
 青砂ヶ浦天主堂国指定重要文化財(平成13年11月14日)
 青砂ヶ浦天主堂は、奈摩湾の中腹を見下ろすように正面を西に向けて建っている。設計施工は長崎県下に数多くの教会建築を残した郷土出身の鉄川与助による。明治43年(1910年)8月に竣功し同年10月献堂式が行われた。 煉瓦造の重層屋根構造である。重層の断面形式をそのままに表す正面は、煉瓦による帯状装飾によって3分割し、薔薇窓や縦長アーチ窓によって飾られ、正面入□には台座と植物模様の柱頭飾を有する円柱で支えられた石造りアーチを持つ。内部は3廊式で主廊部側廊部ともに漆喰仕上げ4分割リブヴォールト(コウモリ)天井、アーチは全てポインテットアーチで造られている。
 外観内部とも全体に均整のとれた構造となっており、細部の意匠も優れている。日本人設計者の手で建設された煉瓦造教会堂の初期のもので、かつ本格的教会堂建築の基本である重層屋根構造にもとづく外観や内部空間が形成されるようになった初めての例で、この後県内の離島を中心に多数建築された煉瓦造教会堂の構造、意匠の起点となった。

教会の成り立ち
カトリック青砂ヶ浦教会
五島にキリストの福音が最初に伝えられたのは1560年アルメイダによってである。その頃、多くのキリスト者が島内に定住していたものと思われるが、1587年7月24日(天正15年)の豊臣秀吉のキリシタン禁令、続いて1614年12月22日(慶長18年)の徳川家康によるキリシタン禁令と、宣教師外国追放により、弾圧に弾圧が続いたため、当時のキリスト者の子孫が、この地に残存していたのか不明である。
 今日当地に定住している、キリスト者は、1797年(寛政9年)五島肥前の守盛運侯が、大村藩主大村純伊侯に移民を要請した時に、長崎県外海地方から移住してきた、キリシタンの子孫と、迫害を逃れて、秘かに移り住んだ信徒の子孫と言われている。
 教会建設については、明治12年(1879年)青砂浦に小集会所を造り、信仰生活の中心の場としてた。現在の外壁煉瓦造りの教会は3代目で、1910年(明治43年)大崎八重師の指導のもとに鉄川与助氏の設計施工により建立され同年10月17日、ユリオ・アルフォンクーザー司教の時、落成、献堂された教会である。当時の信徒戸数は50戸程であったと言われている。                                      1995年10月建立