かとっぽ

   どんくの合戦(本当にあった話)有川町)   Home              

  明治三十七年頃、有川郷の浜村、元入幡神社の下通り

東側は後牟田と云って、牟田田であったがそこでの出来

ごとである。今はその牟田田も埋め立てられて住宅が建

ち並び、江の浜、友住行きの広い道となって定期バスも通っている

が、当時は畔径にちょつと気がきいている程度の小道で、小川原、

赤尾方面に行くのにも人々は減多にこの道は通らなかった。 

ところが或る日突然、ここで珍しいことが起こり、パッと広がった。

ドンクが二派に別れてケソカしちよっどちたウんニヤ、あら戦争

バイ、何百何千と、ざ−まなシコ集って、茅ばくわえッチ、切り

合いばしいっちょどチ、見にい こで、ひるん時間にいこか、先

生から、がらるッぞ、なんのがらるッもんな、時間迄に戻れば。

 こんなやりとりが学校のあっちこっちで、ヒソヒソと、ささや

かれたのであった。 このことは、先生の耳にもすぐ這入った。

初めての事だ。珍しいとあって、或る先生は生徒を連れて見に行

ったとも云われている。 ここで何百、何千というドンクが二方

に別れて切り合いを始めたのである。 

勢力争いか!ボスのお嫁さんの取り合いか!それは

分からない。 刀のようになったカヤ、のこぎりの

ようにギザギザのついた、ぞくに云ぅナキリガヤで

ある。このカヤを五センチから十センチ位に切った

ものをロにくわえて争っていた何百と切り殺され、ゾウワタが飛

び出していた。これだけのものが何処から集まって来たものか不

思議でならなかった。 牟田田は奥の方に少し残っているが、あ

の合戦後あのような沢山のドンクは全然姿を見せない。農薬のた

めかどうかは解らない。 あの合戦は確か田植前で三月の終り頃

か四月の始め頃のようではなかったろうか朝は一寸薄ら寒いが日

中はポカポカの日和であった。合戦は二日も三日も続いた。学校

に行っても勉強に実が這入らなかった。あのドンクの

合戦は、どっちが勝っただろうか、と、気になって仕

方がなかったからだ。

 授業が終ると急いで勉強道具を風呂敷に包んで背中

にひっからったり、腰にくくりつけて一目散に後牟田

へ駈け出していったものである。 切られて血だらけになって死

んでいたのも多かった。合戦が終ってから何処へ行ってしまった

のか分らなくなった。 死んだのも幾つかは残っていたが大部分

のものが無くなっていた。ドンク族が処理したものだろうか?

それも分らなくじまいである。

                        有川町郷土誌より