かとっぽ

    隠れキリシタン    


 徳川三代将軍家光の時代、キリシタンに村する弾圧と迫害はきびし
くなり、外人宣教師が国外に追放あるいは処刑されてしまうと、キリ
シタンはきびしく取り締まりの目をのがれるため各地に潜伏してひそ
かに信仰を守るようになった。このような潜伏キリシタンのことを
「かくれキリシタン」とよばれた。彼等は長崎県に多い人里離れた島
々に住み、二百五十年間に及ぶ江戸幕府の弾圧や迫害をたくみにのが
れて信仰を守りつづけた。これは世界の宗教史上でも類例のないこと
である。 このように「かくれキリシタン」が潜伏することができた
秘密は、かれらの宗教がただ一つの神を信しるカトリックとは似ても
似つかぬ宗教に変質していたからであるといわれている。それは仏教
や、神道、土俗信仰を幕府の弾圧をしのぐかくれミノとした。これら
の人々は信仰が公認された後もなおキリシタンであると同時に仏教の
壇徒、神社の氏子であるという変則的宗教性を保ちつづけ、仏教も、
神道も、土俗信仰もすでにかくれミノではなく、かくれキリシタンの
宗教要素と化していった。 そしてこのような変則的宗教の形でしか、
きびしい弾圧のなかを生きぬくことはできなかったのである。

隠れキリシタン信仰の仏像に似せたもの?

踏み絵 ?
 若松町地域は地形的に複雑でかくれるには格好の地だったらしく、
有福、堤、鵜瀬、月ノ浦、筒ノ浦、深浦、土井ノ浦、郷ノ首、高仏等
がかくれキリシタン部落で、中にはキリシタンや仏教との寄合い部落
もあり、それぞれ異った宗教儀式や、慣例、秘密組職などが守られて
いる。信者のあいだでは「オランョ」という祈とう文が伝誦され、子
供が生れると洗礼と霊名が与えられる。そして神棚や仏壇をかざり、
葬式には僧侶や、神官を迎えて行い、僧侶や神官が帰った後で、御経
消し、戻しといってオランョ(祈り)を唱えて入棺する。
 オランョはラテン語、ボルトかル語、九州弁などが混在したもので、
その内容や意味は信者にも理解されていない。 組識としては概ね部
落毎に、帳と呼ばれる宗教組織があり、部落によっては二ツ以上の帳
を持つところがある。帳には、帳役、御水役、取次役の三役があるが、
部落により呼び方の違いがある。すなわち、帳役は、帳方、爺役とも
呼び、御水役は、御授け役、水方、看坊とも呼び、取次役は、聞き役
とも呼ばれている。 帳役は、祭礼を司る帳の最高責任者で、日繰り
という暦(バスチャン暦)を所持し、一年の祝日や、行事の日を繰り
出し、祈りや教義を伝承する。
 御水役は洗礼を授ける。 取次役は祭礼の伝達、その他いろいろな
世話をする。 これら三役は、行事を行う一週間前から動物や不浄と
思われるものには、触れてはならないなど厳しい戒律を守らなければ
ならない。 そのほか、すべての儀式が三役そろわなければできない
ことになっていて、全く兼任ができないのである。

“おらしょ” 読めても意味不明

御帳しはい記、御しはい人全
 オランョは祈りの意味で、この祈りについて片岡神父は次のように
述べられている。 宗教は人を神に結ぶ道であって、そのきずなとな
るのは祈りであるから、どの宗教でも祈りは最も重要な信仰生活の力
とされる。祈りがどの程度実行されているかは、そのまま宗教性の厚
薄を示すものであり、キリシタン時代信者たちは、「ドチリナキリシ
タン」ゃ「オランョの翻訳」など多くの出版物によって祈りを教えら
れ、その意義と重要性を教育されたのである。しかし、徳川幕府のキ
リシタン弾圧の中で、これらの書物は没収されてしまったし、写本を
持つことも困難になった。
 寛文三年の「大村領内宗門改様之事」に、「町屋、在々、浦々に至
るまで、系図と言い、又は先祖より譲りし物などと申来り、宗旨之道
具、書物、経等所持仕り候者無之哉、心を為付候事」。とあるように、
キリシタン道具と共に、祈り本などのキリシタン書物は、検索の重要
な対象になっていた。
 しかし、厳しい弾圧の中でキリシタンたちは祈りを忘れなかったよ
うである。その故にこそ七世代二百五十年の潜伏時代の信仰が生きつ
づけたのであろ、そしてこの祈りは、長い潜伏時代に形成された
秘密心理から生み出きれたオランョをとなえるとき、声を出さず口の
中でとなえる習慣を生み出したのである、といわれている。              

                    「若松町郷土誌より」  

  ・・・ オラショにつきましては、ラテン語の祈りを意味するオラシオンが訛ったもの
      とのご指摘がセシリアさんよりありました。

       (セシリアさんは以前有川町鯛ノ浦に在住されていたそうです)