解説
十七日祭り
旧6月17日、有川の船津、中筋郷民によって、7分間程度の寸劇や踊りを 俄芝居に仕立て、十組の山(数人で担げる小舞台)を出し、太鼓、鉦、三味線の囃子に合わせて本通りを練り歩き、海童神社を皮切りに町内の各所で寸劇や踊りを披露する夏祭りで、往事は年中で最も人手が多く、町内は勿論のこと隣接町からも多くの見物人が集中し、道も通れぬ程の賑わいであった。
この行事は海童神社のお祭りで、子供を水難事故から守るために始められたと言う。「五島神社誌」の記録によれば元和3年(1616)江戸時代の初期の頃の夏、旧暦六月十七日近くの海で泳いでいた子供や大人の網子など数人が次々に水死した。その年はそのままで過ぎたが翌4年と5年の同じ6月17日。また不思議にも水死者が相次ぎ、その数は増える増えるばかりで、出漁する者も次第に減り、子供達は海を見るのさえ恐くなり、村
人達も恐怖と不安が募るばかりであった。
ところが或る晩、村の乙名役(取締のごとき役)の高井良福右衛門の枕元に海童神と名乗る神様が現れて「福右衛門よ、わしはずっと昔からこの地方に住んでいるが誰も祀ってくれる人もなく、住む家さえない放浪の身だ。今からでも何処か住む所を見つけて祀ってくれるならどんな事でもしてやろう」といって煙のように消えたという。 そこで福右衛門は村人達と相談して、早速神小島に祠を建て、即席の「にわか」を奉納して海童神を慰めた。時に元和6年(1620)6月17日のことであった。
以来海童神は約束を守ったのか水死者は出なくなったという。それ以来、漁師の多い中筋と船津の両郷において毎年例祭が継続された。
例際は海童神のご巡幸に始まり、両郷から十組の山
(数人で担げる小舞台)を拵え、即席の寸劇を用意し、太鼓、鉦、三味線の囃子も賑賑しく、海童神社前に集合し、先番から「にわか」を披露しながら道囃子も賑やかに町内を一巡する。 「にわか」の特徴として、歌舞伎芝居の名場面を演じた幕切れに「博多にわか」もどきの「落ち」をつけ、同
時に「にわかじゃ」と喚声を上げると共に山を高く持ち上げる勇ましい仕来である。
昭和の中期頃には、浄瑠璃語りが絶えて現代劇や股旅物が多くなり、また役者となる若者が少なくなり、子供達による舞踊等を演ずる組も出てきた。
昭和35年の改革により「踊り町当番制」が取り入れられ、中筋、船津両郷で5組が踊り町となり、5組が休むという隔年方式となったが、同46年に再改革されて、両郷から2山と3山を交互に出す方式に変えてみたものの、組内がしっくり行かないという不満が生じ、昭和50年、旧来の両郷で10組出演制に復旧された。
更に昭和51年、子供達が参加し易いように祭りを夏休み期間の7月27日に改められた。その後、高井良家の後継者不在により、当家門前での踊りは中止となり昭和62年三社統合に伴う有川神社の新設に依り、上有川、高崎、西原の各郷も参加しての有川8ヶ郷による8山の出演が実現し、更に企業等の賛助出演もあり、低調を辿ってきた夏祭りが再興された。とは言うものの、曽て踊る箇所が百ヶ所を超え、夜半まで賑わっていた往事に比べて十数ヶ所に減少し夕方には静かさを取り戻している。
有川町郷土史 より
--------------------------------------------------------------------------------海童神社
元和3年から5年(1617〜1619)の3年間、毎年旧暦6月17日頃海中で遊泳する大人や子供の溺死者が相次ぎ、その時の乙名役(おとなやく)、高井良福右衛門に海童神の神託があり、それに基づいて元和6年(1620)6月17日応護島(おこじま)に石の祠を建て奉斎し、即席の俄芝居(にわかしばい)を奉納したところが溺死者がでなくなったと言われている。それ以来毎年お祭りが行われてきたが、これが今日の「十七日祭り」の起こりであり、現在は毎年7月下旬の日曜日に行われている。
なお現在海童神社は有川神社に合祀されているが、神社の入り口及び奥の鳥居は長須鯨のあご骨であり、捕鯨で栄えてきた有川をしのぶ風情がある。
案内板より |