キリシタン洞窟 (若松地区)
今、新上五島町の観光資産の中で、最も注目されているのがこの キリシタン洞窟 です。永禄9年(1566) 、外国人宣教師の手によって、五島全域にキリシタン信仰が広まり、時の領主がキリシタンに改宗すると、多くの家臣、領民が帰衣し、各地に教会が設けられました。
しかし、その後、豊臣秀吉による禁令、徳川幕府による一層の過酷な迫害が起こり、五島も領主の世代交代などでキリシタン弾圧が始まりました。明治元年、五島のキリシタン探索は、ますます厳しさを加え、
五島崩れ といわれる最後のキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れました。この弾圧の嵐は、若松周辺でもそれぞれの集落で起きました。そのような中、この近くに住む里ノ浦地区のキリシタン達は、迫害を避けて、この洞窟に隠れました。洞窟は奥行50m、高さ5m、幅5mのT字型で、入り口はかなり広い海蝕台場の背後にある岸壁の裏側にあって、海岸からは見えない格好の隠れ場となっています。里ノ浦の山下与之助、山下久八、下本仙之助らは話し合って、当分の間の生活用具や物資を持ってひそかに、この洞窟に隠れました。
しかし、ある朝のこと、不用意にも朝食を炊く煙を沖を通る漁船に見つけられ、役人の知るところとなって捕らえられ、算木責めなどの拷問にかけられました。この時以来、この洞窟をキリシタンワンド洞窟と呼ぶようなりました。昭和42年、苦しみに耐え、信仰を守り抜いてきた先人達をしのび、鎮魂の願いを込め、洞窟の入口に高さ4mの十字架と3.6mのキリスト橡が建てられました。毎年11月、近くの土井ノ浦教会の信者100人ほどが集まり、祈りを捧げています。 |
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若松島から瀬渡し船に乗り、約10分のところにあるこの洞窟は明治のキリシタン迫害の際、付近のカトリック信者が弾圧を逃れ、隠れ住んだといわれています。洞窟の中は、入り口からイメージするよりも意外と広く、途中の壁には何かを飾ったような跡が残っています。 |
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洞窟の内部、案外広いですね |
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針のメンド 岬の途中に穴が開いています (岬全体が針の形をしており、メンドとは穴のことです 方言でメンヅ) |
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